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2006年6月17日 (土)

不勉強が身にしみる

Fubenkyou 『不勉強が身にしみる -学力・思考力・社会力とは何か-』

長山靖生 光文社新書 05年/12月刊

kuniさんの紹介 で読みました。

序章にて「本書は、凡庸な親が、子供の教育に悩みながら、親もまた勉強しなくてはならないと考え、しかし何をどうやって学ぶべきか、そもそも勉強とは何だっけ、といった事柄を思い悩むドキュメントである。」と書かれていますが、内容から判断するに、この著者はかなり勉強していることがうかがえます。

いつものようにいっぱい抜書きします。

手厳しいことを言うと、「努力しても報われない」と感じている人の多くは、実は努力をしていない。いや、まったくしていないわけではないだろうけれども、やっぱり「努力している」と言うのは、ちょっと図々しいレベルに留まっているのではないか。努力しているとしても、やっぱり「勝ち組」の方々に比べると量も少なく、効率も悪く、「努力している」というのには、あたらないのではないか。/・・・/だいたい、世の中で努力をまったくしていない人間なんて、いないのである。努力するのは、特別のことではなく、生きている以上、当然の行為なのだ。そうやってみんなががんばっているなか、他人と差をつけようと思ったら、よほどの力量か工夫か持続力がいる。/たとえば敵前逃亡の五十歩百歩には大差はないかもしれないが、これが毎日の前進努力の積み重ねとなると、五十歩と百歩では、明らかに大きな違いとなってくるだろう。みんなが百歩前進しているとき、自分だけが五十歩しか進まなければ、進んではいるにしても、結局は五十歩の退却をしたのと同じになってしまう。世の中が進んでいるとき、何もせずに留まっているというのは、留まっているのではなく、逃亡し、退却をしていることに他ならない。

他人と比較しなければ、その人の社会的な評価は計れない。それが現実というものだ。もちろんそれは、本人の全人格的存在の評価とは別のものだが、それでいいのである。勉強や仕事をしているときだけが、その人間の価値ではない。ただ、仕事を介して関係する他人にとっては「その人の人間的魅力ではなくて、仕事の能力や熱意や精度が大事」というだけのことだ。学業成績は、そのための基礎訓練のバロメーターである。いっしょに飲むなら、話が面白い人間のほうがいい。しかし私は、話が面白くて笑顔が魅力的な政治家よりも、汚職をしないで真面目にいい政策を立案・実行する政治家に一票を投ずるだろう。人間的魅力と職業適性はイコールではない。/子供の主体性を重んじ、人間の本質を自由なものと考える立場から、競争は人の精神を歪めるものとの見方をする人々もいる。過度のプレッシャーは禁物だ、とも思われている。だが、競争を排除したら、そこから先は変化は生まれない。成長も抑制されてしまう。

ドイツの諺では「運はそれを掴むべく準備と努力を怠らぬ者に訪れる」と言う。/・・・/漠然とした夢を明確な目標として確立する。/そして、その大目標を達成するための中目標、小目標を立てて、ひとつひとつ攻略していく。もちろん、人生をかけての目標なのだから、長期戦であり、途中で「大目標」が変わることもあるだろう。それでもいいのだ。・・・そもそも人生のなかで、真面目に取り組んで無駄だったというようなものは、ひとつもない。

司馬遼太郎は小説家であって、歴史学者ではなかった。晩年が近付くにつれて、司馬は文明批評的な仕事を多く手がけるようになったが、そこでは彼は、小説で行ったような史料の恣意的な使用を控えている。このことの意味を読者は考えなければならないし、歴史家は十分自戒しなければならないだろう。/恣意的な史料の使用というのは、たとえば次のようなケースのことだ。新撰組の土方歳三を主人公にした「燃えよ剣」において、司馬は土方を、その頃すでに滅びつつあった「士」というものの精神を体現しようとして、美しく生き、そして死んでいった颯爽たる人物として描いている。だからこの小説では、クライマックスのひとつである新撰組の池田屋襲撃のくだりで、古高俊太郎という尊攘派の志士を拷問にかけて、彼らの密会場所を突きとめたことは書かれていない。陰惨な拷問を実行したのは土方だったが、司馬はその事実を示す史料があることを知っていながら、敢えて小説中には取り入れなかった。・・・彼はおそらく、小説という形式を用いることによって、史料から客観的に分かる以上のことを、作中の人々の生き様を通して語りたかったのである。そしてそれは歴史家がやってはいけないことなのだ。司馬遼太郎は、そのことをよく知っていたのである。

フリーターやニートの問題を論ずる討論会に出席したとき、「好きなこと」のレベルが、大人と若者のあいだでずれているのに気付いた。/社会人である大人が「好きなこと」と言う場合、それは自分が完成させる仕事の結果に向かっての努力や途中の過程で生ずる軋轢やさまざまな調整の苦労は、自明のこととしている。何かを成し遂げたことがある人にとってはそれは説明するまでもないことなのだ。だが、まだ目標を達成していない若者には、結果は想像上のものとしてさえもまだはっきり見えていない。彼らにとっては、そこに至る途中の過程(それも入り口付近)だけが、これまで経験したことのすべてである。だから「好きなこと」を得るための過程での「努力」や不愉快なルーティンワークを耐えることの必要性が、リアルに感じられない。途中だけが現実なので、その段階で「好きなこと」に触れたいのだ。/・・・/学ぶことは「好きなことを見つける」のと「客観的評価を受ける」のと「嫌いなことでも理解し、水準以上に達する努力をする」というバランスが取れなければ、本当には伸びない。自分をよりよく育てること。自分を愛すると同時に、甘やかさずに厳しく育てること。ときには、他人に言われそうな説教を、先回りして自分自身に語りかけてみること。「自分らしく生きる」とは、自分の欲望に忠実であることではなく、自分の理想に向かって計算高くあることだ。

評価:8点

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