走ることについて語るときに僕の語ること
『走ることいついて語るときに僕の語ること』 村上春樹
文芸春秋 07年10月刊
書き下ろし。
ブログを書き始めてから初めての村上春樹。
村上春樹は好きな作家の一人であり、新刊が出るとハードカバーでも買ってしまう。
今作はフィクションではなく、タイトルが示すとおり走ることについて書かれたもの。マラソンランナーであることは知っていたが、毎日走っていることやトライアスロンや100kmマラソンもこなす人だとは知らなかった(読んだことがあるかもしれないが忘れていた)。
以下、いつものように抜粋。#は私のコメント。
Pain is inevitable. Suffering is optional. ・・・正確なニュアンスは日本語に訳しにくいのだが、あえてごく簡単に訳せば、「痛みは避けがたいが、苦しみはオプショナル(こちら次第)」ということになる。たとえば走っていて「ああ、きつい、もう駄目だ」と思ったとして、「きつい」というのは避けようのない事実だが、「もう駄目」かどうかはあくまで本人の裁量に委ねられていることである。この言葉は、マラソンという競技のいちばん大事な部分を簡潔に要約していると思う。
#私がトレーニングとして走っていた頃も、「きつい」と思ってからどれだけ頑張れるか、というメンタルトレーニングとしての位置付けだった。今はトレーニングというレベルではない。
アーネスト・ヘミングウェイもたしか似たようなことを書いていた。継続すること-リズムを断ち切らないこと。長期的な作業にとってはそれが重要だ。いったんリズムが設定されてしまえば、あとはなんとでもなる。しかし弾み車が一定の速度で確実に回り始めるまでは、継続についてどんなに気をつかっても気をつかいすぎることはない。
誰かに故のない(と少なくとも僕には思える)非難を受けたとき、あるいは当然受け入れてもらえると期待していた誰かに受け入れてもらえなかったようなとき、僕はいつもより少しだけ長い距離を走ることにしている。いつもより長い距離を走ることによって、そのぶん自分を肉体的に消耗させる。そして自分が能力に限りのある、弱い人間だということをあらためて認識する。いちばん底の部分で認識する。そしていつもより長い距離を走ったぶん、結果的には自分の肉体を、ほんのわずかではあるけれど強化したことになる。腹が立ったらそのぶん自分にあたればいい。悔しい思いをしたらそのぶん自分を磨けばいい。そう考えて生きてきた。黙って呑み込めるものは、そっくりそのまま自分の中に呑み込み、それを(できるだけ姿かたちを大きく変えて)小説という容物の中に、物語の一部として放出するようにつとめてきた。
#いくらか共感できる。そう考えて生きてきたわけではないけれど。イヤなことがあったときに走ると、気持ちは薄まる。
もし僕の墓碑銘なんてものがあるとして、その文句を自分で選ぶことができるのなら、このように刻んでもらいたいと思う。
少なくとも最後まで歩かなかった
#私は過去5回フルマラソンを走ったが、そのうち2回も最後の最後に歩いてしまった。歩いてでもゴールにはたどり着いたので、私の場合は、少なくとも最後まであきらめなかった、と刻んでもらおう。
80年代のことだが、東京で毎朝ジョギングをしているときに、一人の素敵な若い女性とよくすれ違った。何年にもわたってすれ違っていたから、そのうちに自然に顔見知りになり、会うたびにお互いにっこりと挨拶をしていたのだが、結局話をすることもなかったし(内気なので)、相手の名前ももちろん知らない。でも毎朝のように彼女と顔を合わせるのは、そのころの僕のささやかな喜びのひとつだった。少しくらいそういう喜びがなかったら、なかなか毎朝は走れない。
#いいなあ。。
ランナーにはおすすめ。
共感できることうけあい。
評価:8点
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